2007年5月31日~7月31日に開催された「リスボン建築トリエンナーレ2007」において、キュレーター 五十嵐太郎さん率いる日本チームは東京の現在を12組の気鋭の若手建築家と写真家のコラボレーション によって表現する「Architectural Tokyo in Photography展」を行いました。
ここで、建築家・原田真宏さんと 原田麻魚さん(MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO)が手がけた作品の写真を撮り下ろしました。
[ 参加建築家・写真家 ] 中村拓志×本城直季 井坂幸恵×佐藤週哉 眞田大輔×佐内正史 ヨコミゾマコト×鈴木理策 他
このリスボン建築トリエンナーレの好評に伴い、下記の内容で行われるTNプローブ レクチャー・シリーズ第5回「建築と写真の現在」に参加します。
開催日
2007年8月1日(水)19:00~21:00(会場18:30)※20:00以降は入場できませんのでご了承ください。
会 場 TNプローブ 住 所 港区港南2-15-2品川インターシティB棟 大林組14Fプレゼンテーションルーム
TEL. 03-5769-1020 入場料 無料
定員 100名(申込先着順)
詳 細 TNプローブのHP(www.tnprobe.com/contents/other/lisbon.html)をご覧ください。 HPにて事前に申し込みが必要です。
問合せ TNプローブ(TEL:03-5769-1020)
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『建築と写真の現在 vol.5』(TN プローブ 2007)
新津保:ここからお見せする写真は『記憶』と『夏*』という写真集に収めたものです。 僕は、その空間に身を置いた時にわき上がってくる記憶や心の動きと、ものごとの変化の境界に興味があります。『記憶』は季節の光が変わる時に喚起される記憶を一冊の本にまとめたいと思い、つくった本です。被写体である思春期の4人の少女と、季節の光が等価に呼応していく構造をつくり、一冊にまとめていきました。移り変わる四季の風景と4人のポートレートを短い映画を撮るようにオムニバス形式で構成したものです。自分が子供の頃に訪れて思い出に残っている場所や風景、たとえば杉並区や吉祥寺にある公園、葉山の海と空などを撮影場所に選んで撮っていきました。
空間には音や空気の流れ、といった物理的なものだけでなく、人の営みの積み重ねによる時間の堆積といった、目に見えないけども、非常に美しいものが多く含まれていると思います。ですから写真を撮る時は、それらが身体感覚の中に働きかけてくるものを何とか光に託したいと考えています
『夏*』という写真集では、僕が小学生の時に住んでいた場所や街が中心となっています。これも基本的にはポートレートと風景という構造ですが、被写体は一人で、主題となっているのは子供の時に聴いた音です。そこで鳴っていた音を頼りに空間を選択して、フィールドレコーディングをする時の意識で風景とポートレートを撮っていきました。結果的に水辺が多かったですね。写真集と並行して映像も撮っていて、それらが対になる形で制作していったのですが、最終的には本のみの形で発表しました。映像は別の機会に発表しようと思っています。
柴:そういったバックグランドをもった2人が、今回コラボレーションすることになったきっかけは何だったのでしょうか。
原田:新津保さんを知ったのは、自分の作品が建築専門誌に発表されることになり、それをチェックしに書店に立ち寄った時です。先にも言ったように、僕はなるべく建築を簡単につくれる原理をつくろうと考えているのですが、その原理が生み出す現象も、設計の対象だと思っています。 作品が載った専門誌では、実際その原理をとても分かりやすく写真に撮ってくれていました。雑誌のチェックも終えて書店からの帰り際、建築コーナーの隣には、だいたいアートのコーナーがありますが、そこに新津保さんの写真集が平積みされていて、何気なく開いてみたら僕が設計の対象としている原理ではない側、つまり建築の周囲で起きている現象の側が新津保さんの写真から見てとれたんです。「ああ、僕はこっち側(現象)も作品だと思っていたんだ」と……。それで今回の企画展に際して、コラボレーションの依頼をしました。
新津保:お会いして原田さんの作品を拝見した時、大上段に構えたコンセプトではなく「物語を考え、そこから構想を広げていく」とおっしゃっていたことが、とても新鮮でした。形を導いてゆく過程が、いままで考えていた建築家というものとは大きく違っていた印象があり、原田さんの建築を撮らせていただくことにしました。
原田:被写体に選んだのは「SAKURA」というパンチングを施したステンレスパネルで覆われ建物です。実際出品した写真は、微妙に構図の違った2枚をセレクトしています。普通だったら、同じような写真を2枚も使わない(笑)。それに建築写真というのは、通常、建物のアウトラインをフレームの中にすべて収めて説明的に撮る。ところが、この2枚は外観を写したものではあるけれども、アウトラインが切れていて、建物の全体像が分かるものではありません。となると説明のための写真ではないと、まず分かるはずです。 僕は、この2枚を見た時に、新津保さんの動いている視点のようなものを感じました。建築の理念を見ている、あるいは原理を見ているというのではなくて、この建築が発散している雰囲気を見ているのだなということを感じたんです。
新津保:外壁にさらに寄ったものと、浴室の窓を写した作品もあります。
原田:ぱっと見たら、建築を写しているのか、何を写しているのか分からない、建築専門誌では絶対採用されない写真ですよね。
新津保:「SAKURA」を拝見した時に、それが実際に立っている街並みの中で建築の表面にあたる光の表情が刻々と変化する様がすごく魅力的でした。さらに、その表面にうがたれた小さな穴が非常に音楽的に見え、周辺の環境に対して微細な音楽を放っているように思えました。その音がもともとの立地環境がもつ、実際には聴こえないのだけれども、かすかに鳴っている音と静かに響きあっているかのように見えたのです。ですから説明的に複写するのではなく、自分が一番いいと思うところを素直に撮っていったんです。
原田:新津保さんの写真を見て、「こういう環境が、僕の建築では生み出されているのだな」ということを、他人の眼を介することで再び認識しました。
新津保:けれども、当然のことながら、何が写っているか分からないですよね(笑)。たとえば階段にある採光部に寄って撮った写真ですが、ぱっと見ると真っ白で、何が写っているか分からないかもしれません。階段と、その上部の吹き抜けから落ちてくる光がとてもきれいで、その光の質感と先の浴室の光の質感が、自分の中でつながったので、これを撮ったんです。非常に主観的なのですが、外観写真と並べた時に意味をもってくるのではないかと思って撮影をしていました。
原田:これらの作品を見せてもらった時に、浴室の写真も階段のも、外壁に寄った写真も、アウトラインがないからどこを写しているのか分からないのだけれども、水蒸気や光の粒さえも捉えているような――ある質感、質量みたいなものが伝わってくる写真だなと感じました。
新津保:風景を撮る時に、その空間に遍在する光以外の複数のレイヤーがあると感じるのですが、建築にもそれがあるとは言えるのではないでしょうか。今回の作品では、風景を撮る時と同じ意識で建築の建つ外部の周辺空間と、内部空間に向かいました。光を丁寧に写していくことで、その空間で感じたことを写真に託したいと思ったのです。
僕は、ある時まで建築専門誌に載るような建築写真を退屈だなと思っていました。ところが縁があって、ハウスメーカーのイメージブック用にモデルルームの写真を撮るという仕事を受けることになった。非常に過酷な撮影で、約1ヶ月半の間に、日本中のモデルルームを廻って、そのディテールや外観、内観の撮影を行いました。まさに「建築千本ノック」と言うのでしょうか。いざ撮影がスタートすると、とにかく水平と垂直を完璧に出さないとメーカーの人が納得しない。簡単なようで、これがすごく大変。それを毎日、毎日続けていったお陰で、撮影終盤には三脚を組んでスッと水平・垂直が出せるようになりました(笑)。その仕事を終えてから、あらためて建築専門誌の写真を見てみると、1枚の写真から、それを撮影した人の身体感覚の微妙な違いが読み取れて、たいへん興味深かったのです。
原田:建築写真って、水平と垂直への異常なこだわりがありますよね。その日の温度差で水平機にも表れないような水平と垂直を出すという恐ろしいほどの執着――これは一体なぜなのだろうと思っていたのですが、新津保さんからこの話を聞いて、建築家にとって建築写真とは図面の仲間なんだなと思ったんです。パースや模型と同じように、自分の意図を伝えるツール。それを明快に語るものが建築写真なのだと。だからこそ、原理や理念が伝わる。僕はそう思う。 その一方で、たとえば建築専門誌『新建築』の写真を見ていても、誰が撮ったものか分かるようになってきた。水平・垂直をきっちりとりながらも、その写真を撮った写真家自身の主体性を感じます。
新津保:写真を撮る立場からすると、「写らないもの」が、とても多いんですね。その写らないものや普段知覚できないものを、どのように可視化しようか、聴こえるようにしようかと思いながら撮影をしています。その見えないものをどう構築していくかに、とても興味があります。
先ほど、ヨコミゾさんがカメラ・オブスキュラの話をされていましたが、もともと写真がもっていった性質というのは、漠然と過ごしていると見過ごしてしまう光などを、カメラ・オブスキュラのようにとても建築的な装置を通すことによって「あ、こんなところがあったのか」と再認識できるという点にあると思います。写真と建築が共有しているものがあるとすれば、見えているけども見えていないものを、もう一回確認できる――確認というよりも、再認識できる機能ではないかと思うのです。写真を通して建築に向き合う場合、具体的な形と向き合う訳ですが,形以上に、そこに佇み流れている空気のようなものが、その建築をつくった人によって異なっています。建築家の皆さんの仕事は、目に見える形を作ること以上に、見えない層がもたらす身体感覚への働きかけの創造なのではないか、というのが今回の作業を通しての感想です。