KENSHU SHINTSUBO

Mar

22

Diary_Fragments  日記を更新しました

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小林正人さんの初めて作品集『MK』に、2019年に携帯で撮影した写真が掲載されていた。

この写真を撮ったとき、絵は物質と精神の両方にまたがるような、そのままの状態を示しながら、西日を浴びていた。過去と現在が併存し、時間と場所を超えているように感じられた。小林さんが以前話してくれた「この星」という感覚が高い純度でそこにあったように思えた。

その日、カメラを持っていなかったため、携帯で撮影したが、この写真を見ると、絵の周りに流れていた、次の瞬間に消えてしまう一期一会の特別な時間と、そのときの感覚が鮮明に蘇ってくる。

作者である小林さんがこの写真を収録してくれたことに、感じたものがこの小さな写真に宿っていたのかもしれないと思うと、嬉しくなった。

 

 

 

 

 

 

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2025年1月11日(土)

福島での、震災前は小学校だった建物での展覧会のインストール作業が無事に完成した。 昨日の朝、ふと思い立ち、会場でとても小さなペインティングを制作し展示に加えた。すると、生乾きの油絵の具の微かな匂いが教室に漂い、展示がぴたりと完成したように感じられた。10代の頃に通ったアトリエの匂いに似ていた。

手を動かしている間、昨年の暮れ、信頼する友が「羽のような雲」という言葉とともに送ってくれた空の写真を思い出した。天使の羽のように大空に広がるその雲が記憶の中で鮮やかに蘇り、触れることのできない心のなかの像が、物質性を伴って現れたようだった。この瞬間は、今回の作業のなかで最も心に残るものとなった。 シルバーホワイトだけを使って描き上げたその小さな絵を教室の窓際にそっと置いたとき、窓越しに見えた福島の空と、友とのことばと写真を介して共有した東京の空の記憶が、静かに重なり合うように感じられた。

 

 

 

 

 

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2024年12月29日(木)

今年最後の散策をした。うららかな日差しが温かった。

科学大の敷地を歩いていると、野生化した鸚鵡とインコたちが飛んでいるのが見えた。

 

 

 

 

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「茶屋を出て、自分等は、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり始めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。」

 「しかしそれは未だ今の武蔵野の夏の光を知らぬ人の話である」

(国木田独歩『武蔵野』新潮文庫)

 

 

 

 

 

—『USO 6』(rn press 2024)より—

2024年11月7日(木)

常磐線に乗って東北でのフィールドワークに向かった。途中、ちょうど1年前の今ごろ、我孫子駅から歩き、手賀沼を訪れたのだった。

その日のひとときを思い出しながら、窓の外を流れる我孫子の景色を映像に撮った。

 

2024年9月29日(日)

友人よりできたてのエッセイの原稿が届いた。約3年にわたる連載の最終回の原稿だった。

 その原稿は、この世からいなくなってしまった大切な人について書かれていた。文中にあった「2021年の暮れから翌年春の」ということばを目にしたとき、こころの中に、この3年のあいだにあったいろいろな出来事、もう会えなくなってしまった人のことが蘇ってきた。

 

 

2024年9月23日(月)

秋晴れの日、玉川上水と吉祥寺を歩きながら撮影をした。

緊急事態宣言のころ、同じ道を歩いたことを思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

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2023年12月27日(水)

子供の頃に住んでいた街を再訪し、風景を撮った。

 

 

 

 

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 —『USO 6』(rn press 2024)より—

2023年12月6日(水)

西武線を乗り継ぎ、多摩湖へ行った。

その場所は、1995年に刊行された小説の冒頭に載っていた地図には「村山貯水池」と記されていた。

日没後、そのすぐ近くにあった西武遊園地の敷地内に立つ展望塔のゴンドラに乗った。地上80mの高さから見た多摩湖は真っ暗だった。ゴンドラの中ではあいみょんの『あのね』という曲が流れていた。

 

 

 

 

 

 

 

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2023年11月1日(水)

撮影の帰路、常磐線の我孫子駅で降りてみた。アシスタントの案内で、初めて手賀沼というところを訪れた。秋の手賀沼は心地よい風が吹いていた。

遠景の雲のフォルムと先日受け取った写真のなかの湯気のフォルムが重なったような気がした。

 

 

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 —『USO 6』(rn press 2024)より—

2023年9月2日(木)

同業の若い友人Hから写真が送られてきた。

それは、冬の実家でもち米を蒸しているときの湯気を撮ったものだった。

その写真には、私が2009年にI市で撮った白い煙を写した写真のことを思いながら撮った、ということばが記されていた。

それらをみたとき、14年前に送った手紙への返信が、ながい時を経て不意に届いたかのような感慨があった。かつて撮影しながら心に思い描いたものが、未知の人の心を通して予期せぬ形で表れていたからだ。

 

 

 

—『USO 5』(rn press 2023)より—

2023年8月10日(木)
午後、KとJR東小金井駅で待ち合わせ、『USO』編集部に向かった。歩きながら、25年前の8月、Mの見舞いにいった日のことを思い出した。うちあわせのあと、Kと武蔵境駅まで歩いた。途中、桜堤の公団で写真を数枚撮影した。

 

 

2023年7月25日(火)
友人Kと西武新宿線の花小金井駅で待ち合わせてバスに乗り込み、久留米市にある滝山団地とよばれる1960年代に日本住宅公団によって建てられた団地へむかった。

昨年の5月、私たちは取手で待ち合わせ、常磐線、武蔵野線、西武池線を乗り継ぎ、風景をめぐる散策をした。今回はそのときの夕暮れに訪れたこの団地を再訪することが目的だった。

バスを降りると昭和の風情が残る緑道があり、私たちはそこから歩き始めた。真上から照りつけていた太陽は、遊歩道の上を覆う木々に深い影をつくっていた。私たちはお互いが持参したカメラで風景を撮影した。

日が傾きはじめてきてから、再びバスに乗って花小金井駅にゆき、そこから電車で西武遊園地駅へ向かい、駅の近くにある湖を見に行った。途中、1950年に刊行された大岡昇平の小説『武蔵野夫人』の冒頭に掲げられていた狭山丘陵付近の地図のことを思い出した。

夕方の光に照らされた多摩湖をながめていたとき、私はスタジオマンのSが先日見せてくれた一葉のモノクローム写真を思い出した。 その写真は1950年代のもので、Sの父親が生まれる前、まだSの祖父母が若い頃に撮影されたものだった。写真には「狭山湖」と記された碑が写っていた。

Sによると、その祖父は読書を好んでいたようだった。もしかしたら当時刊行された大岡の小説を読み、この地を訪れてみたのではないかと思った。 

 

 

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2023年7月20日(木)

昨日は沼津でのロケのあと市内に一泊した。

今朝はゆっくりめに起きてロケで使わせていただいた芹沢記念館を再訪した。

芹沢光治良記念館は我入道とよばれる地域にあり、そこから御用邸のほうへ歩いた。そのあとふたたびタクシーで市内へ戻り、井上靖が小説のなかで描いた、かつて市内一の呉服店だった「かみきの家」があった場所を訪れた。そこにはもう当時の建物の面影は残っていなかったが、昨夕泊まったホテル近くを流れる狩野川を渡る橋が、井上が愛した「御成橋」だったことを知った。

沼津を訪れるにあたって、『あすなろ物語』を再読した。作中に描かれていた当時の日本の世相と現在とを比べてしまう。

歩いていると、『あすなろ物語』の一節にでてきた冴子、2節にできてきた雪枝『夏草冬濤』にでてきた「かみきの家」の蘭子、れい子といったヒロインたちの面影が浮かんできた。

狩野川からの風を感じたとき、物語のなかの光景と目の前の街並みが重なったように思えた。

 

 

 

2023年2月11日(日)
個展の準備のため過去の作品を整理していたら、30年前に撮影したまま現像していないフィルムが数十本でてきた。撮影した年月日が記されていたものが幾つかあったものの、その殆どがなかみがわからないものだった。

 

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20220820-20221002_Ishinomaki新津保建秀_Kenshu Shintsubo《Untitled》 2022年、ライトジェットプリント、アクリルマウント、ピグメントプリント、.355×236mm 

 

 

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1950_Kokubunji20201009181057FFU0025by Genyoshi Kadokawa

 

—『Collected Letters』(蜘蛛と箒 2021)より—

2021年11月11日(木)
再び撮影の仕事で軽井沢に行った。
依頼主の会社がとってくれた宿は、同じ会社が経営するウェディングホテル内にある宿泊施設で、まるで撮影スタジオかホワイトキューブのギャラリー空間のような真っ白く何もない部屋だった。果たしてここで安眠できるのかと心配になったものの、壁にはめ込まれたガラス窓から森が見えたところがとても気にいった。

誰もいない、だだっ広い部屋でPCを立ち上げてApple Musicが自動的に選ぶ楽曲を流していたとき、ちょうど12年前の今頃、仕事でCDジャケットを撮影したことがあるバンドを辞めた青年が作った曲がかかった。それは3分にも満たない曲で、歌詞のなかにあった「暗い森の丘で」という言葉が窓から見えていた暗い森と重なった。
聴きながら、彼はどのような気持ちでこれを作ったのかということを考えた。

部屋に響き渡る暖房の音で落ち着いて寝ることができなくて、翌朝は早朝に目が覚めてしまった。夜明けの光に少しずつ明るく照らされてゆく森の映像をみながら、もういちどその曲を聴いてみた。

 

 

2021年11月4日(木)
今日は娘の13歳の誕生日だったので、生まれた日や小さな頃のデータを引っ張り出し、家族に送った。

 

 

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2021年10月19日(火)
仕事の下見で軽井沢に行った。
撮影候補地を探す過程で、およそ10年ぶりに軽井沢タリアセンを訪れた。
そこで、塩尻湖のほとりに移築再生された、1931年にW.M.ヴォーリズの設計により建てられた別荘建築を見たとき、先月きいた「道の時間」ということばを思い出した。

2021年9月22日(火)
小説家の友人とともに、多摩川上水沿いの道、三鷹市井の頭の住宅街をふたたび訪れてみた。あたりまえのことであるが、同じ風景でも一人でみるのと誰かとみるのとでは全く異なる経験が立ち上がるということを実感した。
井の頭の住宅街、井の頭公園を歩いたのち、タクシーで小金井市に向かい、はけの森美術館の庭、野川沿いの道、野川公園、多磨霊園まで歩いた。
かつて訪れた場所、初めて訪れる場所を歩きながら、友人が話してくれたのが「道の時間」ということばだった。
記憶のなかに分け入っていくような一日となった。

 

2021年9月7日(火)
久しぶりに小説家の友人と会った。
別れ際、表参道の交差点でしばし立ち話をした。
このとき、8月の最後の日に、玉川上水沿いの、三鷹市井の頭の住宅街をひとりで歩いたこと、その道中に昔のことを思い出したことについて話した。
その話のなかで友人が最も関心を示したのは、1992年の井の頭公園で、私が見知らぬ老婦人に声をかけられたときの思い出だった。

1992年の晩夏、井の頭公園の池のほとりで木々の葉っぱを透過する光を写真に撮っていたときに見知らぬ老婦人から、何を撮っているのか、と声をかけられた。
その老婦人は少女のように屈託のない人で、私にいろいろな質問をなげかけてきた。やがて、立ち話もなんだし、私の家はすぐそこなのでお茶にいらっしゃいと言われた。ついていったところ、公園からすぐ近くに建つ品の良い日本家屋に案内された。ご主人が亡くなったあとは、お子さんたちが母屋に建て増ししてくれた離れに一人で住んでいるとのことだった。その日は紅茶とケーキをご馳走になって別れたが、翌週電話があり、ご主人の遺影を大きく引き伸ばしたいこと、その相談に乗って欲しいとのことで、再びお邪魔することになった。小さなモノクロ写真に写ったご主人はとても穏やかで優しそうな方で、これを預かり複写し、六ツ切りほどの大きさのプリントに伸ばして届けたところ非常に喜んでくれた。このときは、ここで一段落と思っていたが、プリントを届けて以降も週末のお茶に誘われることがさらに増え、毎回彼女の半生をいろいろとうかがうことになった。そこでわかったのは、お見合いを経て、女学校を出てすぐにご主人と結婚したこと、お二人の間には四人の娘がおり、そのときお住まいの離れは娘たちが建ててくれたとのことだった。お話をうかがうなかで、亡くなったご主人は東京帝国大学を卒業し内務省に勤務していた官僚であったこと、戦前、戦中はさまざまな地への転勤があり、娘たちが生まれたのは異なる地であったこと、戦後は公職追放にあい大変ご苦労なさったことを知った。そうしたなかにあってもご主人は常に穏やかで優しく、奥さんと娘さんたちを怒ったり、大きな声をあげたことがただの一度もない、温和な方だったとのことだった。こうした交流は数年にわたって続いたが、あるとき、内務省勤務のご主人が特別高等警察の課長であったことを知った。ご婦人は特別高等警察が戦時中にどのようなことを担っていたのかはあまりご存じないようであり、昭和史の激動を官吏の家族の立場から聞くというのは、たいへん得難い経験だった。

今回、久しぶりにこの日本家屋があった場所にいってみたが、のっぺりした建売住宅が数軒立っていただけだった。
友人はこの話になにか小説のイメージがうかんだのだろうか、その場所をみたいと言ってくれたので、近日中に、この友人とともにこの地を再訪してみようと思った。

 

2021年8月11日(水)
お盆前の時期の夕方、等々力駅からしばらく歩いて住宅地をぬけた場所で、大井町線沿いに繁茂する植物に遭遇した。

夕刻と夜に推移してゆく逢魔が時のよわよわしい光のなか、それらがなにか別の、意思をもった生き物のように佇んでいた。

 

2021年7月19日(月)
この2ヶ月ほど仕事がおわったあと、等々力渓谷から谷沢川を遡って周辺風景の写真を撮っている。その作業の延長として、以前、映像の仕事の下見で訪れたことのある丸子川沿いの道を自転車に乗って再訪してみた。
目黒通りから環状八号線を横切って多摩川方面にむかう坂をくだると、ひっそりと丸子川が流れている。玉根橋という小さな橋を左折して、丸子川沿いの道を走った。
夕方の丸子川沿いの道は、日中の猛暑とはうってかわり、涼しくて心地よい風が吹いていた。いちばん惹かれたのは「いおりやばし」(庵谷橋)とかかれた橋付近の眺めだ。
ここで、自宅でのリモートワークを終えて一風呂浴びたと思しき男性が、3歳くらいの娘を連れて散歩している様子を見た時、私の娘が小さかった頃を思い出した。
帰宅後、娘と一緒に散歩しながら近所のスーパーでアイスとビールを買った。
スーパーから戻ってスマートフォンでニュースをみると、ずっと昔、撮影で会ったことのある音楽家がオリンピックのための楽曲制作を辞任したという報せが流れていた。

 

2021年5月5日(水)
毎年、5月はなるべく屋外で制作する時間を設けるようにしている。今年は5月5日に画家の友人と多摩川での写生に行った。

東急大井町線の上野毛駅で待ち合わせて、国分寺崖線から多摩川へくだる坂道を歩いた。

前日の五月晴れの天候からうって変わって、この日は今にも雨が降りそうだった。川原に到着ししばらく歩き、ちょうどうよいベンチをみつけたので、そこで描くことにした。

私が持参した紙は強風のためにいまにも飛ばされそうになり、押さえるのに苦労した。

友人はこれを見越して、出がけに買ったというベニヤ板に描いていた。

帰りになにかを食べようということになったが、緊急事態宣言でほとんどの飲食店がやっておらず、かろうじて見つけたうなぎ店で櫃まぶしを食べた。

 

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2021年4月19日(月)

今日は、麹町を目白にて、アイドルを経て心理カウンセラーとなったという20代の女性のエッセイの書籍カバー写真の撮影をした。

ロケアシスタントとしてきてくれたスタジオマンは、昨年の秋、建築家のKさんの書籍を撮影したとき手伝ってくれたI君がきてくれた。

撮影中、I君から、私の撮影現場に来たがっているる新入社員がいるということを話してくれた。私がずっと昔に撮った写真を知っているようだった。珍しい人がいるのものだな、と思った。

 

 

 

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2020年4月24日(金)

コロナによる緊急事態宣言の影響で、毎月撮影を担当している雑誌 G の小説家の友人による連載ページの取材が中止となった。

そこで、編集部のYさんの提案により、今回は特別編として、互いの日常を主題にしたエッセイと写真を寄稿することになった。

私は、パンデミックが始まって自宅にこもるなか、娘と公園を散策した際に撮影した写真を寄稿することにした。

17時、待ち合わせ場所の自由が丘ロータリーへ向かうと、編集部のYさんと落ち合うことができた。入稿用の写真のプリントを手渡し、しばらく立ち話をしたのち、別れた。

ふと、戦時下の社会もこのようなものだったのだろうか、と心の中で考えた。

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2018年5月13日(日)

真鶴半島でアイドルのNを撮影した。撮影中、撮影の仕事を始めて間もないころ、いつも撮影を手伝ってくれた人物のこと、その頃の撮影現場のこと、当時の感情が蘇ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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相対性理論のアルバム「天声ジングル」の予告篇映像が解禁になった。

https://youtu.be/nnxwD_DisOE?si=bjClOj_vZVLRBe-I

 相対性理論「天声ジングル」予告篇 監督:みらい制作 撮影:新津保建秀

 

 

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中山英之、山岸剛、戸田穣、松原慈、有山宙との座談会

「建築の経験/写真の経験」『10+1』より (2010.7)

https://www.10plus1.jp/monthly/2010/07/issue3.php

 

松原慈──新津保さんには、私たちが会場構成をてがけた日本科学未来館での展覧会「’おいしく、食べる’の科学展」の会場を撮影していただきました。まずはじめに、どうやって撮影していったのかを教えてください。

新津保建秀──この展覧会を記録するときに意識していたのは、空間を一枚の絵で断定するのではなく、過渡的な状態で提示しようということです。
最初(午前中)は記録だからきちんと撮らなくてはいけないなと思って、しっかり水平をとってのちに資料としても成立するようにと、いわゆる建築写真的な造形上のセオリーをかなり意識していました。ただ、午前中に撮影してみて非常につかみどころがない空間だった。となると強度の高い一枚の画像で断定するのではなく、断片の集積によるとりとめのない流れのなかでとらえていったほうがよいと考えました。そこで普段行なっているようにある程度自分の勘にまかせて撮っていくようにしました。あとは、お二人が言葉をすごく重視されていたので、書籍や電子化されたアーカイブになったときにエッセイや誰かとの対談など、さらにはドローイングなどこの場を生み出す過程で生まれたさまざまな断片とリンクさせていったときに完成するようなイメージ群になることを目指しました。

松原──撮影をお願いするにあたって、私が新津保さんに打ち明けた悩みは、展覧会での体験をドキュメントしたいと思ったときの難しさでした。数枚の写真だけではうまく説明できないから、写真ではやらないほうが良いのだろうかなどと。でも、新津保さんが建築へ興味や関心を示していたときにちょうどお願いできたことが、こうした写真を生んだのだと思います。

有山宙──新津保さんのお仕事を拝見して、撮られ方の異なる二つの写真を、僕たちは〈午前の写真〉/〈午後の写真〉と勝手に名付けました。〈午前の写真〉で代表的なものは、建築雑誌に載っているようなちゃんとした建築写真で、それはそれでもちろん僕たちはリスペクトしています。ただ、そうした〈午前の写真〉だけではもはやコミュニケーションを取れない相手がいるのではないかと感じていて、まずは〈午後の写真〉の空間に対するアプローチについて建築に関与している皆さんと話したいと思ったわけです。それから、新津保さんや中山さんの住宅を撮影した岡本充男さんは、まさしく〈午後の写真〉のアプローチを取っていますが、もっとほかに違う空間のとらえ方もありそうな気がしています。今日は基本的に〈午後の写真〉にフォーカスしてお話しして、第三のアプローチについての意見交換もできればと思っています。
未来館の写真は、完全に〈午後の写真〉だと思いますが、だんだんとやる気がなくなってきている訳ではないんですよね?

新津保──そんなことはないです(笑)。

松原──ここでドキュメントしているのは空間なのでしょうか。それとも時間ですか。

新津保──自分がこの場で過ごしたひとときをトレースして空間を撮れれば良いかなと考えていましたから、時間を手がかりにして空間をとらえていったということになるのかな。
ところで、未来館での撮影時の自分のなかのスタンスには伏線が二つあって、それは両方とも音楽に関わる作業でした。音楽家の渋谷慶一郎さんが主宰する音楽レーベルATAKからリリースされたi8U+Tomas Phillipsによるフィールドレコーディングを緻密に構成した音響作品のアルバム『ligne』のための作業と、渋谷さんが自身のレーベルから去年リリースした『for maria』というピアノのアルバムのレコーディング作業のドキュメントの撮影です。渋谷さんは電子音楽の世界で非常に知られている方ですが、昨年ピアノのアルバムを出したんですね。ここで自分はレコーディングの様子をずっと記録として撮っていました。元々自分はフィルムで撮ることが多いのですがレコーディングしている空間の光の環境が不安定で感度調整が難しそうだったため、初めて一眼のデジカメを買ってすべてデジタルで撮りました。フィルムの場合、ひとつの完結したメディアの中に時間を封じ込めていくような感覚があるのですが、デジタルで撮影する場合、茫洋とした大きな空間に際限のない断片を放り投げていくような感覚があります。このときは一枚の写真で言い切るというより、全部が溜まったときになにかが見えてくるような写真が撮れたら良いなと思いながらやっていました。ある種の電子音楽には非常につかみ所のなくはじめも終わりもないような音のテクスチャーだけでできているような音響作品があるのですが、こうした感覚を視覚化してゆくことにまえから興味があって数年前からいくつかの習作をつくっていました。その過程で、時間を過渡的に表記していくことへの興味はすでに醸成されていた気がします。
未来館では、被写体は建築空間なんですが、レコーディングの様子を撮っているのと同じようにすればいいなという気持ちで撮影していました。こうして撮った写真は普通のシンプルな記録写真なのですが、先行してやっていた撮影とテーマがつながったような気がしています。

松原──たくさんの写真で空間の体験を再現するという試みは、中山さんも試されていますよね。

中山英之──いまの新津保さんのお話は、自分が2〜3年ぐらい前に思っていたことをそのまま外から聞く感じで、嬉しいような恐いような気がしました。
僕が設計した住宅《2004》が出来上がってしばらくして、新しい家具を搬入することになって、ただ現地に行って帰ってくるだけではもったいないので、写真家の岡本充男さんに一緒に行きませんかと誘って来てもらいました。一日一緒にいて、僕は棚を取り付けていて、彼は35mmの手持ちのカメラを下げていたのですが、一日の仕事が終わっても写真を撮ってくれていたのかよくわかりませんでした。カメラをぶら下げていたのに撮っている印象が全然なかったのです。ところが、それから一週間ぐらいして、プリントされた写真をそのまま持って来てくれたのですが、写真の枚数が300以上ありました。いろいろと試行錯誤している感じもあまりなく、どんどん撮っているという感じで、彼が過ごしていた時間がそのまま映し出されているようでした。

松原──私は、自分たちが設計した空間をドキュメントしてもらいたいと思って新津保さんに頼んだのですが、実際に写真の束を見てみると、知らないものが多く写っていて、まったく知らない記憶、誰かの記憶がそこにある感じで感動しました。うまくドキュメントがとれたというよりもむしろ他者の記憶が映しだされていたことに反応したのではないかと思うんです。中山さんが説明されていたような、この写真の束のなかに建築の経験がすべてあると読み替える感覚は、それが自分が求めていた空間のドキュメントであったというより、人が丁寧に体験した時間の流れを一遍に見ることができたから満足したということだと思っています。

中山──それは僕の抱いた感覚とすごく近いですね。

松原──空間の記述と言ってもいろいろなレベルがありますよね。誰の視点に立った空間の記述なのかということが問題になるし、そうすると私たち設計者がうまく記録できたと思う満足感っていったいなんだったのかと思ってしまいます。一方で、実感を大量の写真で見せるというのはすでに試したこともあって、私はどちらかというと、それとは違う方法があるのではないかとすごく気になっています。

新津保──写真というと光をコントロールするもののように思われますが、時間のコントロールが肝だと感じています。音楽関係の人たちと話していると時間を扱いながら空間を扱っているんだというようなことを耳にすることが多いのですが、そうしたことを行ないながら、写真以外の表記方法でも場所を記述することができるかもしれないですね。撮影と並行してフィールドレコーディングを行なうことがあるのですが、音が喚起する空間性は写真よりもその場をよくとらえている場合があります。

写真による前後関係の凝縮

有山──今回、事前にみなさんから何点か資料を送ってもらいました。山岸さんには、詩を送っていただきました。山岸さん読んでみますか?

山岸剛──三好達治さんの「土」という詩ですね。
「土  蟻が  蝶の羽をひいて行く  ああ  ヨットのようだ」
ぼくは写真家ですが、自分の写真を考えるにあたって、小説家や詩人の仕事、その言葉のありかたにいつも大きな興味をもっています。この三好達治さんの詩は、平易で端的な、数もそう多くない言葉の連なりでしかありませんが、タイトルの「土」、行替えというルール、「ああ」という感嘆詞の効果などから、ほんとうに豊かな作品経験をもたらしてくれます。だれにでもわかる、簡単な一つひとつの言葉に、あらゆる次元のものが呼び込まれているようで、いま皆さんがおっしゃっていたような「時間」としか言いようのないものがはらまれているというのか、そういうものが詩という形式に統合されている、結晶化されているように思います。人によってやり方はさまざまだと思いますが、写真家というのは基本的に「量」をたくさん撮るわけです。そして、そのなかから選択する。ぼくはその選択された一枚一枚の写真に、いかに多くのものを呼び込めるかというのをつねに意識しながら写真を制作しています。被写体やその場所にいたときの感覚はもちろんのこと、いままでに見てきた写真やイメージ、記憶などといったものを一枚一枚の写真に凝縮していくような感じでしょうか。そういう意味では、結果的に、まさに「時間」を扱っていると言えます。

松原──この人たちを知ってますか? ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニというドイツの写真家/映像作家です。彼らは必ず高解像度で撮影し、すごく大きいサイズで発表します。いわゆる建築写真っぽい写真ですが、建築の竣工写真ということではなくて、その建物の持ってるヒストリー全部を一枚の写真に凝縮しようとしている。例えば日本だったら長崎の軍艦島とか、変わった歴史のある建物や場所を被写体に選び、一枚で歴史を感じさせるような写真を撮ります。彼らも同じように時間を大切にしていますが、アプローチが違いますね。

 

有山──例えば、これは同じくニナとマロアンのフランスの図書館の写真ですが、これは〈午前の写真〉のように見えませんか。これは、改修前に本が全部なくなった時の写真で、一瞬竣工写真のように見えますが、廃墟なんですね。これは建築写真の形式をもった写真です。そんなことはないですか。

山岸──そうですね、そう言えると思います。だからこういう、いわゆる「建築写真」らしいものが、さきほど見せていただいたような大量の写真による経験に匹敵できないかというと、必ずしもそういうことはないのだと思います。いまふうに言えば、ネットなどで無意識的にたれ流されている、ほとんど洪水のような大量の写真群を、いかに作品としての写真に統合していくのかが、現代の写真家の仕事のひとつであると思います。もちろんそれは、一枚の決定的な、強い写真である必要はないわけです。

中山──話を膨らませすぎかもしれませんが、伊東豊雄さんの事務所で先輩だった平田晃久さんと話していて、幾何学のとらえ方の変化について、話題になったことがありました。あらかじめ均質で無限にある空間を想定して、そこに座標を打っていき、最後にそれらを結ぶというのが古典的な幾何学のとらえ方だったとすると、それでは「外部」が無限定のままになってしまいます。「外部」環境の有限さは、私たちみんなの切実な問題として無視できませんから、もう少し両者を等しく、あるいは連続的にとらえられるような考え方を探す必要がありそうだ。そこで出てくるのも、やっぱり時間です。ある時間軸のなかで変化し続けているものを、細部の無秩序に翻弄されずに全体的なつり合いを計ることのできる、そういう幾何学について平田さんは考えています。そういう幾何学は、ある瞬間を切り取って観察することにも耐えますが、その前後にある時間の流れみたいなものを、その瞬間が映しているようにとらえることができます。つまり、ムービーだから時間があってスチルだったら時間がないということではなくて、スチルを見ても、スチルが切り取っている世界の配分、バランス、釣り合いみたいなものを無意識に読み取ろうとしている。そうするとやはり数秒後・数分後の状況、あるいは同時に別の場所で起こっていることが気になる。それは、ここで切り取っているものというのはここだけの問題じゃなくて全体のつり合いのなかのひとつを見ているという視点があるからでしょう。

山岸──AARというウェブサイトで中山さんのインタビューを拝読しました。ぼくは建築の専門的なことはよくわかりませんが、コンピュータなどによるシミュレーションが高度化していって、先のことがある程度予測可能になったときに、建物をつくっている時間と、それを使う時間が連動してくるみたいなことをおっしゃっていましたよね。ぼくは例えば住宅の写真を撮るときには、この建物はどんな人が住むんだろうとか、この部分はどういうふうに使われていくのだろうとか、そういうことを一枚一枚に流し込むようなかたちで写真を撮ります。あるいは、「家」というものが根源的にもっているイメージ、例えば「押し入れは暗くて怖い」とか、そういったことも意識しながら撮る。そういうイメージの蓄積を写真の背後にしのばせる、というのかな。きわめてアナログではありますが(笑)。

中山──最近よく言っていますが、設計の過程にけっこう正確な未来予想みたいなものが、いろいろなかたちで入ってきています。例えば大きい地震が起きたら建物がどういう壊れ方をするのか、あるいは何百人もの人がいっぺんに入ってきて、それが真夏のお昼だったら室内の熱環境はどんな感じになるのかとか、そういう未来予想をもとに、それぞれに逐一対処するかたちでつくっていけるようになってきました。それがもっと進化して、よりはやく正確に未来を予測し始めると、「つくる/考える時間」と「使う時間」の区別がなくなっていくかもしれない。そうすると設計者は、これまでのような、未来を上手に予測する千里眼を持った山師みたいな人ではなくなって、むしろ設計する時間のなかで使ってる時間と同じような振る舞いを、設計者自身もはじめるようになるはずです。
少し抽象的な言い方でどこまで共有できているのかわかりませんが、このことは「設計している時間と使う時間のあいだに現われてきた新しい私」みたいなもので、見方によってはちょっとルーズに見えるかもしれませんが、さきほどのような撮り方をした写真には、それがちゃんと写っている気がなんとなく実感としてあります。

松原──空間をつくっていると、使う人とつくる人は一緒という感じがするんです。使う人が体験することを分けて考えようとすると、完成品というもののラインが決まってしまう。だけど、使う人の振る舞いはつくる人の振る舞いと絡み合った状態でしか存在しない。そしてそういう前提でしか設計はできないと考えることが多くあり、その絡み合った関係自体をドキュメントしようとすると、どうしても時間軸がいるんですよね。戸田さんは、建築というのは絶対にフレーミングできないものとおしゃっていましたが、そのこととも関係しているかもしれないです。

質感だけの写真

戸田穣──ここに、2007年のTNプローブでのレクチャー・シリーズ「建築と写真の現在」の記録をまとめた冊子があって、そのなかに新津保さんの写真も掲載されています。新津保さんは建物のファサードのテクスチャーだけを切り取っていらっしゃっていて、これを見たときに私が思い出したのが、バート・スターンという写真家によるマリリン・モンローの写真です。彼女が死ぬ数週間前に、写真家と彼女が二人っきりでホテルの部屋にこもって撮ったものなのですが、肌のテクスチャーがまざまざと出ていて、けっこう残酷なんです。同時に美しい写真でもあって、お腹には彼女の手術の跡なんかも見えています。
新津保さんの写真にみられる建物のファサードのテクスチャーとか、私がマリリン・モンローを想起したように写真に表われる皮膚感といったものは、ひょっとしたら写真家もしくは建築家自身が興味を持つ対象なのかなと思っています。

松原──時間を撮ろうと思ったらきっと残酷ですよね。

戸田──写真という二次元の表面の厚みとでもいうべき部分にたぶん時間が現われるのだと思います。以前、松原さんに「建築というのは絶対にフレーミングできない」といったのは、そういった、写真に現われる時間をさしています。中山さんはとあるインタヴューで、設計の段階で時間を走らせているとおっしゃっていますよね。あるひとつの線を描くことから順番に設計していく段階で、最終の全体像が見えないまま設計されているというお話をされていて、それが不安ではないですかというような応答もありました。それを読んで、設計の段階で先の見えないままやっていくプロセスそのものが、建物に時間性を与えていくということなのかと思いました。同時に設計をどこかで終えることも、作家の決断として必要です。
新津保さんの1,369枚の写真にも、同じような印象を感じたので質問したいのですが、いつこれで充分だと思われて撮影を止めたのでしょうか。それは外在的な条件ですか。

新津保──その両方が拮抗するタイミングで筆をあげていたと思います。未来館の撮影は、撮る時間をあらかじめ決めていました。自分の場合これまでの経験でいつも9時から17時ぐらいまでが調子が良くて、それを作業の基本時間にしています。ですのでよっぽどのことがない限り、遅くとも19時には終えるようにしています。夜にペースが上がる人もいると思いますが、いろいろ試してみて自分の身体的なペースにあっているので、自分はそのペースを守ったということです。

松原──会場から「触覚についてどう思いますか?」という質問がきました。これはさっきのマリリンの皮膚の話や、新津保さんのFOIL GALLERYでの展覧会「Rugged TimeScape」とも関係しそうですね。

有山──では、新津保さんがFOIL GALLERYで発表された写真を見ましょう。

新津保──これは複雑系研究者の池上高志さんとの共同作業によって制作したもので、彼がいなくてはできなかったと思います。今回の作品では、風景の中の雲とか森とかの抽象的な対象を撮影した画像を、池上さんによって組まれたプログラムで自律的に解体したものです。さきほどから話題になっているひとつのプロセスの前後ということと関係するかもしれませんが、ここでは一枚の写真から膨大な変化のヴァリエーションが生成されます。

有山──ひとつの風景写真みたいなものを入れるとこういうさまざまなヴァリエーションがでるということですね。

新津保──そうです。写真や映像において多くの場合、いわゆる何が映っているかが問題になりますが、この写真作品ではそういうことに留まらない抽象性が主題になっています。

山岸──たくさん出てきたもののなかから新津保さんが選ぶということですか。

新津保──僕がある程度選びこんだ後に、池上さんとディスカッションしながら新たに画像変換をしたりして詰めていきました。音響作品の制作でサウンドファイルをお互いにやり取りするような感じに近いのかなと思います。展覧会と同時発売された作品集も同様です。この写真での作業と並行して、池上さんが2010年に3月にYCAMで発表した《MTM》という映像作品があるのですが、そこの実作業に向かう過程で話していくなかで共有できたいくつかの問題意識が反映されていると思います。

有山──選ばずに、はじめに出たものから時系列に並んでいるのもありますか。

新津保──ありますね。展覧会においては、その過程で吐き出されたものを時系列順に並べ一枚に統合した作品もあります。この作業ではSemitrasparent Designの田中良治さんに画像データの統合をお願いしました。
FOIL GALLERYの展示は、さっきお話しした渋谷さんと相対性理論による『アワーミュージック』というプロジェクトのための写真作品をつくることがきっかけになっています。もともとは流体=煙の写真でやろうかと話していたのですが、池上さんとやってみたら面白いんじゃないかという意見が出て、池上さんのプログラムをとおしたところ非常にイメージにあったものが生まれました。

松原──撮影したものを、ブラックボックスに入れてそこからなにかに翻訳された大量の結果が出て来て、それを自分で選ぶということは、二回シャッターを押すようなものですね。

 

新津保──確かにそうですね。個人的には写真の面白さは概念的なことにしろ、技術的なことにしろなにらかの構造を設定することでこれまで周囲に偏在していたものの見過ごしていた事象がパッと立ち上がる瞬間にあると思います。そのあたりの意味を少し拡張することに興味があったので、この作品では写真の作業でイメージを立ち上げるためのフレーミングと画像形成のプロセスを包含したものとしてこのプログラムをとらえていました。
さきほどから時間のことが話題になっていますが、2008年に『GOTH/モリノヨル』という猟奇殺人犯が登場する小説の書籍のために使う写真を撮影したときがあるのですが、ここでは都内のあるいわく付きの街を選んでいます。このとき場所が持つ気配が周囲の空間に波及していると時間を感じるなと思いました。このプロジェクトで街を撮るにあたって、そこで起きたことを入念にリサーチしたのですが、その過程では、視覚的な情報とは別のレイヤー上で、ネット上での人の噂や、googlemap上の不審者情報など、言葉の連関から立ち上がってくるある種の風景というのがすごく興味深かったです。その翌年の2009年に相対性理論とのプロジェクトでのメンバーがまったく写っていないアーティスト写真の依頼を受けたときもその『GOTH』と同じ場所で撮っています。
ぼくが、相対性理論というバンドを良いなと思ったのは、なにか今の社会に充満する視線の不穏な感じがあったからなんですよ。一見可愛いんですが。彼らの歌で立ち上がっている風景はまったく映像を使わずとも、国道沿いに看板と大型店舗が林立する風景の裏で一体なにが起きているのかわからないような、不気味で不穏な空気が感じられます。空間とか街は、写真や映像のような光学的なアプローチと生成変化する言葉の連関とが繋がることで、面白い立ち上がり方をするのだなと実感しました。
今回の記録写真に話をもどすと、それ自体が単独で機能するよりも自分以外の誰かの手による何かほかの断片と結合してゆくことでより豊かに空間を記述できるものになれば、と願っています。

松原──リチャード・アヴェドンがポートレイトを撮るときも、丹念にその人のことを調べ上げて、撮る時間は30分ぐらいであっても、そのポートレイトを撮る瞬間は彼が決めることができて、しかもその瞬間を意図的につくろうとしたそうです。写真家はそんなふうに建物や風景に対してもそのアクションを起こすことができるだろうし、いろいろなレヴェルの観察に基づいてそのアクションができるだろうなと思っています。そうすると大量の写真という方法だけではなく、建築だったりなにかスタティックだと思われているようなことの前後関係みたいなものを浮き彫りにしてしまうような、そんな残酷な写真はありうるのではないかと思うのです。

[2010年4月1日、FLAIR POOL@南洋堂書店にて]

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原田優輝によるインタビュー_ウェブメディア『Publicimage』より (2010.5.28)

物づくりに興味を持つようになったきっかけを教えてください。

小学校1年生の終わりに、都心からかなり離れた東京の片田舎の五日市町(現あきる野市)に引っ越しました。そこには6年生のはじめまでいたのですが、往復1時間半をかけて歩いた登下校の時に目にした四季の移り変わりの中の光と木々の音の変化がとても強く心に残っていて、10代の終わりくらいから自然の音を録ったりするようになったんです。

映像もやられていたそうですね。

始めの頃はメディアを限定せず、実験的にいろいろと試していました。8mmカメラと写真機を手にしたとき、言いたいことがかなり自在に伝えられた実感があったので、さまざまな習作を作ることを始めました。

 

写真を始めるようになったきっかけは?

本格的に写真を撮り始めたのは26歳の時です。きっかけは、ひとりのフランス人美術家の友人と出会ったことです。この友人は、インターネットが普及する前から、美術史を踏まえた上で、絵画の歴史について様々なリサーチをネット上でやっていて、ロシアの科学者とコンタクトを取ってディスカッションの成果を作品にしたり、インターネットで様々なフリーウェアのプログラムを入手したりしていました。こうした非常にコアなことに精通している友人と過ごしながら、自分の取り組んでいた作業を再検証することができたのは大きかった気がします。

 

そこでの環境は、日本にいるときとはだいぶ違うものだったのですか?

この作家が、パリでの初めて彼の個展の時期に招待してくれて、パリに長期滞在したのですが、彼から表現とメディアの関係性、コラボレーションの有効性などについてスゴく影響を受けました。その友人が通っていたグルノーブルの大学での恩師のパートナーがファッションエディターだったので、 滞在中は現代美術とモード誌の2つの異なる領域の人たちと会う機会に恵まれました。その友人や周辺の作家達は、自分が設定した主題を個々の専門領域での先行成果にいかに接続していくかということと、選択するメディアに対する意識が高かった気がします。そのとき独学で写真を始めてまもない時期でしたが、スタートの地点で、この友人から紹介された美術家やジャーナリスト、批評家との出会いと、東京から持っていったポートフォリオを介した対話の機会を得たことはとてもありがたかったです。

 

これまでに影響を受けたものなどはありますか?

一概には言えませんが、様々なものから影響を受けています。その意味では、節目節目における友人との出会いには非常に恵まれていたと思います。何かを強いて挙げるとすると、高校生のときに祖父が戦前にライカで撮影した膨大な写真が詰まった箱が出てきたのですが、そのとき目にした光と時間の断片が定着されたかのような小さな紙片への驚きと、子供の時に見た日光写真に像が立ち上がって来るときの驚きは、今の関心事に繋がっているような気もします。また、ウィリアム・ギブスンの小説に、未来の地球でAI によって作られたコーネルのような作品があるのですが、ここで描かれていたような、一人の人間の精神と生の時間を超えた時間軸のスケールは好きですね。

自分の場合は、一から何かを削り出していくのではなく、様々な断片を再構成していくという方法が合っているんだと思います。

 

 

新津保さんの場合は、それを写真を通してやっているということですか?

写真という視覚を起点にした表現フォームを用いながら矛盾しているのですが、自分はそこからもれてしまうものを紡いでいくことに興味があります。最初にやっていた作業では、光と音の断片を用いてそれらをすくいとろうしていたのかもしれません。

 

その辺りが新津保さんの写真の肝になっていそうですね。

写真を撮るということは、具体的な対象を撮っていても、実際はかなり抽象性の高い作業です。私たちの周囲に遍在しているけど気づかないものになんらかのフレームを設定することで、個人や社会が無意識に見ているものを立ち上げる、あるいは消去していくことで何かを暗示する、ということが写真を撮るという作業なのかなと思います。

 

先日FOIL GALLERYで展示された「Rugged Timescape」について教えてください。

今の話ともつながるのですが、概念的なことにしろ、技術的なことにしろ、あるフレームを設定することでこれまで見過ごしていたことや、忘れていたものが パッと立ち上がる瞬間があります。この作品では写真においていわゆる「何が映っているか」ということに留まらない抽象性が主題になっています。

昨年の春から池上高志さんと写真や映像のことでよく話をしていたことがあって、ここでのディスカッションがスゴく良い形で結実したと思います。このきっかけとしてあったのは、音楽家の渋谷慶一郎さんが主宰するATAKレーベルです。ここのデザインはセミトラの田中さんがやっているのですが、僕は2007年ごろからこのレーベルの写真を手掛ける機会が増え、そのような交流のなかで池上さんとよく話をするようになりました。昨年末に始まった相対性理論と渋谷さんによる『アワーミュージック』というプロジェクトで池上さんと一緒に行った作業が、今回の作品につながりました。今回の展示においては渋谷さんとevalaさんによるサウンドインスタレーションも発表されたのですが、僕も含めここでのチームは、同時期に発表された池上さんの山口情報芸術センター(YCAM)での新作インスタレーション『MTM [Mind Time Machine] 』での共同作業につながっています。

 

 

「Rugged Timescape」(2010)

この展示では、新津保さんが撮影した写真を複雑系のプログラミングに通しているそうですが、それによってどのような変化が起こるのですか?

写真が自動変換され、同一のイメージから膨大な画像のヴァリエーションが再帰的に生まれるのですが、その再帰性が破れたときにとても美しいパターンが見られるのです。僕らはこの作品で、今回FOILより出版された作品集におけるテキストで池上さんが的確に書いてくれたように、『一枚の写真が持ちうる時間関係、 因果 関係、並列性、可能世界、そうしたものを明示的にすることで光学的無意識そのものに言及すること』を試みています。これはPhotoshopで写真を加工していくプロセスとは根本的に異なります。

プログラミングを用いた作品は以前にも制作していますよね。

2009年に制作した「Binaural-Scape 1.03」という作品では、ネットワーク上の膨大な情報での流動をある種の自然環境と捉え、それらを支持体に風景写真とサウンドスケープを立ち上げる試みを行っています。ここでは、基幹となるプログラムをイメージソース清水幹太さんに、音響と映像のジェネレートをサウンドアーティストのevalaさんにお願いしました。この時の試みは、今回池上さんと作業するにあたって、とても役に立ちました。

 

「Binaural-Scape 1.03」(2009)

これらの作品は、写真家にとってメインのアクションだと思われるシャッターを切るという行為がそれほど重要視されていないようにすら感じます。

先ほどお話したように、写真というメディアが持つ特性は、ある構造、つまりフレームを介することで私たちの世界に遍在しながらもそれまで見えていなかったものを顕現させるというところにあると思います。写真家にとってシャッターを切るという行為は、フレームをどのように設定して、私たちの生活世界を取り囲む世界の中から何を選ぶかということだと思うんです。そのフレームの概念をなるべく広げて考えたいし、そうしたときに見えてくるものがあるんじゃないかなと。狭義の「カメラ」や、「私」という主体性に依拠しないでイメージを立ち上げることができればと考え、作品を制作しています。

いま新津保さんが興味を持っているものや、今後やってみたいことなどがあれば教えてください。

ここ数年取り組んでいる風景に関するいくつかの作品があるのですが、これは個人としてのものと、今回のように共同プロジェクトとしての形でまとめられることになります。

 

 

 

 

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原田真宏との対談_『建築と写真の現在 vol.5』(TN プローブ 2007)より

 新津保:ここからお見せする写真は『記憶』と『夏*』という写真集に収めたものです。 僕は、その空間に身を置いた時にわき上がってくる記憶や心の動きと、ものごとの変化の境界に興味があります。『記憶』は季節の光が変わる時に喚起される記憶を一冊の本にまとめたいと思い、つくった本です。被写体である思春期の4人の少女と、季節の光が等価に呼応していく構造をつくり、一冊にまとめていきました。移り変わる四季の風景と4人のポートレートを短い映画を撮るようにオムニバス形式で構成したものです。自分が子供の頃に訪れて思い出に残っている場所や風景、たとえば杉並区や吉祥寺にある公園、葉山の海と空などを撮影場所に選んで撮っていきました。

空間には音や空気の流れ、といった物理的なものだけでなく、人の営みの積み重ねによる時間の堆積といった、目に見えないけども、非常に美しいものが多く含まれていると思います。ですから写真を撮る時は、それらが身体感覚の中に働きかけてくるものを何とか光に託したいと考えています

『夏*』という写真集では、僕が小学生の時に住んでいた場所や街が中心となっています。これも基本的にはポートレートと風景という構造ですが、被写体は一人で、主題となっているのは子供の時に聴いた音です。そこで鳴っていた音を頼りに空間を選択して、フィールドレコーディングをする時の意識で風景とポートレートを撮っていきました。結果的に水辺が多かったですね。写真集と並行して映像も撮っていて、それらが対になる形で制作していったのですが、最終的には本のみの形で発表しました。映像は別の機会に発表しようと思っています。

 

 

柴:そういったバックグランドをもった2人が、今回コラボレーションすることになったきっかけは何だったのでしょうか。

 

原田:新津保さんを知ったのは、自分の作品が建築専門誌に発表されることになり、それをチェックしに書店に立ち寄った時です。先にも言ったように、僕はなるべく建築を簡単につくれる原理をつくろうと考えているのですが、その原理が生み出す現象も、設計の対象だと思っています。 作品が載った専門誌では、実際その原理をとても分かりやすく写真に撮ってくれていました。雑誌のチェックも終えて書店からの帰り際、建築コーナーの隣には、だいたいアートのコーナーがありますが、そこに新津保さんの写真集が平積みされていて、何気なく開いてみたら僕が設計の対象としている原理ではない側、つまり建築の周囲で起きている現象の側が新津保さんの写真から見てとれたんです。「ああ、僕はこっち側(現象)も作品だと思っていたんだ」と……。それで今回の企画展に際して、コラボレーションの依頼をしました。

 

新津保:お会いして原田さんの作品を拝見した時、大上段に構えたコンセプトではなく「物語を考え、そこから構想を広げていく」とおっしゃっていたことが、とても新鮮でした。形を導いてゆく過程が、いままで考えていた建築家というものとは大きく違っていた印象があり、原田さんの建築を撮らせていただくことにしました。

 

原田:被写体に選んだのは「SAKURA」というパンチングを施したステンレスパネルで覆われ建物です。実際出品した写真は、微妙に構図の違った2枚をセレクトしています。普通だったら、同じような写真を2枚も使わない(笑)。それに建築写真というのは、通常、建物のアウトラインをフレームの中にすべて収めて説明的に撮る。ところが、この2枚は外観を写したものではあるけれども、アウトラインが切れていて、建物の全体像が分かるものではありません。となると説明のための写真ではないと、まず分かるはずです。 僕は、この2枚を見た時に、新津保さんの動いている視点のようなものを感じました。建築の理念を見ている、あるいは原理を見ているというのではなくて、この建築が発散している雰囲気を見ているのだなということを感じたんです。

 

新津保:外壁にさらに寄ったものと、浴室の窓を写した作品もあります。

 

原田:ぱっと見たら、建築を写しているのか、何を写しているのか分からない、建築専門誌では絶対採用されない写真ですよね。

 

新津保:「SAKURA」を拝見した時に、それが実際に立っている街並みの中で建築の表面にあたる光の表情が刻々と変化する様がすごく魅力的でした。さらに、その表面にうがたれた小さな穴が非常に音楽的に見え、周辺の環境に対して微細な音楽を放っているように思えました。その音がもともとの立地環境がもつ、実際には聴こえないのだけれども、かすかに鳴っている音と静かに響きあっているかのように見えたのです。ですから説明的に複写するのではなく、自分が一番いいと思うところを素直に撮っていったんです。

 

原田:新津保さんの写真を見て、「こういう環境が、僕の建築では生み出されているのだな」ということを、他人の眼を介することで再び認識しました。

 

新津保:けれども、当然のことながら、何が写っているか分からないですよね(笑)。たとえば階段にある採光部に寄って撮った写真ですが、ぱっと見ると真っ白で、何が写っているか分からないかもしれません。階段と、その上部の吹き抜けから落ちてくる光がとてもきれいで、その光の質感と先の浴室の光の質感が、自分の中でつながったので、これを撮ったんです。非常に主観的なのですが、外観写真と並べた時に意味をもってくるのではないかと思って撮影をしていました。

 

原田:これらの作品を見せてもらった時に、浴室の写真も階段のも、外壁に寄った写真も、アウトラインがないからどこを写しているのか分からないのだけれども、水蒸気や光の粒さえも捉えているような――ある質感、質量みたいなものが伝わってくる写真だなと感じました。

 

新津保:風景を撮る時に、その空間に遍在する光以外の複数のレイヤーがあると感じるのですが、建築にもそれがあるとは言えるのではないでしょうか。今回の作品では、風景を撮る時と同じ意識で建築の建つ外部の周辺空間と、内部空間に向かいました。光を丁寧に写していくことで、その空間で感じたことを写真に託したいと思ったのです。 

 僕は、ある時まで建築専門誌に載るような建築写真を退屈だなと思っていました。ところが縁があって、ハウスメーカーのイメージブック用にモデルルームの写真を撮るという仕事を受けることになった。非常に過酷な撮影で、約1ヶ月半の間に、日本中のモデルルームを廻って、そのディテールや外観、内観の撮影を行いました。まさに「建築千本ノック」と言うのでしょうか。いざ撮影がスタートすると、とにかく水平と垂直を完璧に出さないとメーカーの人が納得しない。簡単なようで、これがすごく大変。それを毎日、毎日続けていったお陰で、撮影終盤には三脚を組んでスッと水平・垂直が出せるようになりました(笑)。その仕事を終えてから、あらためて建築専門誌の写真を見てみると、1枚の写真から、それを撮影した人の身体感覚の微妙な違いが読み取れて、たいへん興味深かったのです。

 

原田:建築写真って、水平と垂直への異常なこだわりがありますよね。その日の温度差で水平機にも表れないような水平と垂直を出すという恐ろしいほどの執着――これは一体なぜなのだろうと思っていたのですが、新津保さんからこの話を聞いて、建築家にとって建築写真とは図面の仲間なんだなと思ったんです。パースや模型と同じように、自分の意図を伝えるツール。それを明快に語るものが建築写真なのだと。だからこそ、原理や理念が伝わる。僕はそう思う。 その一方で、たとえば建築専門誌『新建築』の写真を見ていても、誰が撮ったものか分かるようになってきた。水平・垂直をきっちりとりながらも、その写真を撮った写真家自身の主体性を感じます。

 

 

 

新津保:写真を撮る立場からすると、「写らないもの」が、とても多いんですね。その写らないものや普段知覚できないものを、どのように可視化しようか、聴こえるようにしようかと思いながら撮影をしています。その見えないものをどう構築していくかに、とても興味があります。

先ほど、ヨコミゾさんがカメラ・オブスキュラの話をされていましたが、もともと写真がもっていった性質というのは、漠然と過ごしていると見過ごしてしまう光などを、カメラ・オブスキュラのようにとても建築的な装置を通すことによって「あ、こんなところがあったのか」と再認識できるという点にあると思います。写真と建築が共有しているものがあるとすれば、見えているけども見えていないものを、もう一回確認できる――確認というよりも、再認識できる機能ではないかと思うのです。写真を通して建築に向き合う場合、具体的な形と向き合う訳ですが,形以上に、そこに佇み流れている空気のようなものが、その建築をつくった人によって異なっています。建築家の皆さんの仕事は、目に見える形を作ること以上に、見えない層がもたらす身体感覚への働きかけの創造なのではないか、というのが今回の作業を通しての感想です。

 

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 20041127_KunitachiKenshu Shintsubo_045

2004年11月27日(土)

写真集のための秋のシーンの撮影のため、国立へロケに行った。子供の頃に歩いた道を再訪した。最初のカットは大学通りから始めた。秋の朝の澄んだ空気と光の中で、子供の頃を思い出しながら撮影した。

 

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 写真集『記憶』(2005 、FOIL)のための覚書_

 

 

「記憶・記録・写真」について

 私は、他者との関係において生じた、写真にとどめられた記憶を、

単に個人の内部に留めるものとは捉えていない。

写真にとどめられた記憶とは、出来事の共有者すべてに属するものではなく、

それを言語化し、構造化し、外部化する能力を持つ者だけが、

真に“記憶する権利”を得る。

 

つまり、そこで扱われる記憶とは、再構築の主体性によって発生するメディアであり、

私は、記述(内的構造の言語化)と記録(外部への定着)を通じてその記憶を所有している。記述とは、断片に意味を与える操作であり、記録とは、その断片を他者の視線に開く構造である。

 

一方で、記録は“内容の真偽”に責任を負うのではなく、

その構造的な非対称性に対して責任を負う。

性愛・依存・支配・憧れ──

そうした関係的不均衡の中で成立した記録は、

つねに「誰の視線によって、誰の像が、誰に向かって伝えられているか」という

多重の回路を持っている。

私はその回路を可視化し、

その非対称性を意図的に組み込んだかたちで記録を構成しようとしている。

 

写真とは何か。

それは、まだそこにある関係の“残響”でもあり、

関係を“埋葬する儀式”でもある。

いや、正確にはそのどちらでもなく、

関係の現在性を仮死状態に固定する操作である。

 

写真は、関係を殺さず、ただ永遠に同じ位相で保存する。

私は、その写真を「終わりの印」ではなく、

共鳴を続ける装置として残すことを選ぶ。

 この“装置”とは、過去の関係が今も振動し続ける象徴的構造であり、記録された記憶と倫理の配置が、再び思考や創作の場を生成し続けるメカニズムである。

記憶も、記録も、写真も、

私にとっては倫理と欲動が交差する場所であり、

その構造に責任を持つ者として、

私は記憶を記号として操作し、

記録を構造として外部化し、

写真を共鳴体”として生かし続けることを選ぶ。

 

 

 

Memorandum for KI-O-KU (2005, FOIL)

 

On Memory, Record, and Photography

 

I do not consider the memories preserved in photographs—those that arise through relationships with others—to be something confined within the interiority of a single individual.

A memory inscribed in a photograph does not belong to all who have shared the event.

Rather, only those who possess the ability to articulate, structure, and externalize it may truly claim the right to remember.

In this sense, memory is not a passive repository but a medium that emerges through the subjectivity of reconstruction.

I claim these memories through description—the linguistic structuring of inner configurations—and recording—the inscription of those fragments into external space.

Description is the act of granting meaning to fragments.

Recording is the structuring of those fragments so they may be opened to the gaze of others.

At the same time, the responsibility of a record does not lie in verifying its truth-content,

but in addressing the structural asymmetries in which it is embedded.

Desire, dependency, dominance, admiration—

Records that are born within such relational imbalances always circulate through multiple circuits:

Whose gaze produces whose image, and toward whom is it addressed?

I seek to make such circuits visible,

and to deliberately embed their asymmetries into the structure of the record itself.

So then, what is photography?

It is both the reverberation of a relationship that still lingers,

and a ritual of burial that attempts to bring closure.

Or more precisely, it is neither:

Photography is the operation of freezing the presentness of a relationship into a state of suspended animation.

Photography does not kill a relationship; it preserves it forever in the same temporal register.

I choose not to treat the photograph as a mark of closure,

but rather as a device that continues to resonate.

This “device” is a symbolic structure wherein past relationships still tremble and resound—

a mechanism through which recorded memory and ethical configuration

continue to generate new spaces for thought and creation.

For me, memory, record, and photography are all sites where ethics and drive intersect.

As one who assumes responsibility for this structure,

I choose to manipulate memory as sign,

externalize record as structure,

and sustain the photograph as a resonant body.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  2002年11月3日(日)

昼までゆっくり寝て、調布にある神代植物公園へ行った。明日からボストンへ出張なのでゆっくり散歩をした。

 

 

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 1994年2月11日(金)

今日、東京は大雪だった。一度、全部リセットしなくてはと思った。

 

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